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【花は咲く】
意思を持つかのように枝をくねらす木々が押し寄せる獣道に、小枝を踏み折る音が時々響く。
驚いたように飛び立つ小鳥に、ごめんねと苦笑した白木香は、己の隣を歩く青年にふわりと微笑みかけた。
「足元が悪くてごめんなさい。
でも、この国を選んでくれたってことは、こういう国だって分かってくれてのことだよね。」
赤い瞳が何処か探るように碧玉の瞳を覗き込むと、
飄々として、しかし理知的な若き王――この国の建国の王、夜黎は軽く目じりを下げて頷いた。
「ああ、まだ穢れを知らない若木のようにまっすぐな国、だな。」
成人男性の大きな手が、傍らのほっそりとした幹に触れる。
不用意に触れるとかぶれるよ、と軽い口調で忠告すると、おどけたように笑って手を引っ込める。
「その木はかぶれないけど。」
「ああ、知っている。」
「なーんだ。」
子どもらしく唇をとがらせて見せると、夜黎の瞳が悪戯に細められた。
「でも、不用意に触れると小さな棘は刺さるかもしれないな。」
四方を大樹に囲まれて、その幹細い木はそれでも健気に枝を伸ばし、
青々とした葉を目いっぱい茂らせている。
夜黎の言葉に、ぶんぶんと子どもらしい仕草で白木香は首を横に振る。
「大丈夫だよ、その木に棘はないから。」
「知っている、棘のない薔薇だろう?」
知ってるなら何故と問うと、翡翠の瞳は一層悪戯な色をして。
「然り、この木はそなたの木だから。
一見棘がなさそうで、だがぼんやりしてると、そなたにはちくりとやられそうだ。」
目いっぱい枝葉を茂らせる細木の名は、そう『白木香茨(シロモッコウバラ)』―――。
一瞬、紅玉の瞳をきょとんと巡らせた白木香はしかし、
すぐに言葉の意味を理解して吹き出し、それからわざと渋面を浮かべて見せた。
「王、些か言葉が過ぎますよ。お戯れもほどほどに。」
神獣らしい厳かな口調、薄い胸を目いっぱい張って。
「ほら、やはり棘が刺さった。」
くわばらくわばら、と頭を抱え逃げる真似をする姿に、思わず吹き出す白木香。
ニッ、と人好きのする笑顔を浮かべる夜黎。
木々の間を吹き抜けていく優しい風には、甘い花の香りがした。
「さあ、夜黎さま、目的の場所はもうすぐ、
この白木香茨の藪を抜ければ、そこだよ。」
手招く白木香の顔からふっと笑みが消えた。
緊張からか、唇の端が微かに震えるのを自覚する。
「…ああ。」
頷く、夜黎。
その眼差しは真摯であり、白木香の心中を慮っているようでもあった。
木々の焦げる臭いが、死の臭いが、する。
いや、気のせいだ。
あれはもう、何年も前の出来事なのだから。
そう己に言い聞かせ、藪をかき分けて二人向かったその場所。
視界が開け、深い森の中に突然現れる草原。
いつの間にか傾いていた太陽に照らされ、風に揺れる草々は黄金色に輝き、
そこはまるで、一種天上界のような風情を醸していた。
自然が生み出す別天の光景に、息を呑む音が微かに聞こえた。
「綺麗、でしょう。」
睨みつけるようにして草原を見つめたまま、視線を動かすことなく白木香は言う。
夜黎は答えない。
答えずにただ、白木香と同じく、目の前に広がる金色の世界を見つめる。
さわさわと風に揺られたススキが鳴る。
それは何処かもの寂しく、何かが泣いている声のようにも聞こえた。
「…綺麗、でしょう?」
草原から隣の夜黎へと視線を移し、白木香は己の王へと問いかける。
夜黎はそれでも暫く草原を見つめていたが、
ふと白木香へと向き直り、そしてその頭を大きな手でそっと撫でた。
「…そなたのそんな泣きそうな顔は見たくない。
つらいだろう、あの日のことを思い出すのは。」
「なんだ、知ってたんだ。あーあ、やっぱり全部お見通しかあ。」
労わるような優しい手からそっと逃れて、くすくすと笑う。
心中を簡単に読まれてしまったというのに、実に機嫌のいい自分がいる。
ああ、やはりこれでこそ我が王。
此処は、数年前の内乱で焼けた森。
たくさんの命が奪われ、たくさんの血が流れた場所。
この国の忌まわしき過去が眠る場所―――。
昼なお暗い青碧の森の懐に抱かれた芳遼国は、
未だに狩猟採集が主という原始的な生活を営む民が多いため、
緑東地方には珍しく開拓された平野は少なく、
代わりに国土のほとんどを林野が占めている。
仮王朝も、他国からすれば「王朝」という呼び名に失笑が起こるほどで、
比較的大きな部族の長が、王を名乗っているに過ぎなかった。
気質温厚な民が多いため、部族同士の多少の小競り合いを除けば、大きな内乱が起こることもなく、
それぞれの部族は仮初の王を横目に、有り余るほどに与えられる森からの恩恵を享受し生きていた。
しかし。
数年前、この地方を襲った大干ばつは、残酷なほどあっさりと、
森から与えられる恵みを人間たちから奪い去った。
滾々と水を湛えていたはずの泉は枯れ、小川は干上がり、人々は水を求めて諍った。
毎年たわわに果実を実らせていた木々は衰え、
それを糧にする人間のみならず動物たちも飢え、命を絶たれていった。
残された少ない食料を、それぞれの部族は奪い合った。
雨乞いの儀式を行おうと、仮王朝の王は提案したが、聞く耳を持つ者はいなかった。
何もできぬ無力な王の下、日々繰り返される生きるための争い。
戦禍が広がるにつれ、人々の心を憎しみの炎が舐めた。
そして、ついに。
ある部族同士の争いで放たれた一本の火矢が嚆矢となり、人々を生かし慈しんできた森は紅蓮の炎に包まれた。
乾燥した空気の中、一度燃え上がった炎は為す術もなく広がった。
母なる森が焼ける姿を、人間たちは敵味方なくただ茫然と見つめることしかできなかった。
天を舐めるほどの炎と吹き荒れる熱風。
既に戦意を失った人間たちは無策で、絶望に打ちひしがれるばかりだった。
森が、燃える。
人を、あらゆる生命を慈しみ守り育んできた森が、燃える。
仮王朝の王は兵士たちにただちに鎮火するよう命じたものの、所詮無力だった。
森は三日三晩、燃え続けた。
渦巻く灰色の煙は天にまで届き、この国から青空をも奪った。
吹きすさぶ灰色の熱風は、全てを焼き尽くさんばかりの勢いで、国土を遍く蹂躙した。
無力なのは、しかし、人間ばかりではなかった。
神獣である白木香とて、同じだった。
まだやっと人型をとれるようになったばかりの無力で幼い神獣には、
燃え盛る炎を消す力など、持ち合わせてはいなかった。
ただ、人間や森に住まう生物たち同様、為す術もなく立ち尽くすことしかできなかった。
ボクは、無力だ。
煙で曇った空を舞い紅蓮の炎を見下ろしながら、白木香は胸の中で何度も繰り返した。
ボクは、無力だ。
王を得ないボクには、何もできない。
長い干ばつを経て飢えた人間たちの心が荒み始めていることには、気づいていた。
けれど、何もできなかった、傍観することしかできなかった。
力が、ないから。
この国を、そして自分を導いてくれる王がいないから。
神の御遣いである神獣とて、王がいなければ無力な存在であることを、
白木香はあの時、絶望的なまでに自覚した。
煙が目に沁みて、紅玉の瞳から涙が伝い落ちた。
ぽつり、ぽつりと、猛り狂う炎の中に落ちていく雫。
ぽつり、ぽつり、ぽつり―――。
気づくと、灰色の空からも雫が落ちていた。
雨。
恵の雨―――。
雫の滴りはやがて、慟哭のような豪雨へと変わる。
少しずつ、少しずつ、森を襲う炎の勢いが弱くなっていく。
翼を打つ痛いほどの雨は、守り続け来た人間たちに傷つけられた森の嘆きの涙か、
それとも自らが犯した罪の重さに打ちひしがれる人々の懺悔の涙か。
あまりの雨の勢いにそれ以上その場にとどまることも難しくなり、白木香は飛び去る。
何度か、炎に包まれた森を振り返りながら。
今日感じた痛みを、一生忘れないよう。
そして、二度とこんな惨劇を繰り返さぬよう。
己への戒めとして、地獄のような炎の乱舞をその目にしっかりと焼き付けたのだった。
優しい風が頬を撫でるのを感じ、白木香は過去から目の前の現実へと意識を戻した。
目の前には、過去とは違う風景が広がっている。
あの時、戦火で焼き払われたこの地は、黒く焼けた地表も露わな荒れ地と化した。
しかし、森は、強い。
数年の時を経て、風に飛ばされた種子が育ったこの場所は、ススキがなびく草原になった。
長い長い年月を経れば、またいつかは大樹に抱かれた森の姿を取り戻すかもしれない。
それは、人間からすれば気が遠くなるような時間を要することだろう。
だからこそ、あえて。
すう、と息を吸い込み、隣に佇む己の王の顔をまっすぐに見上げて、白木香は告げた。
「我が王、此処に我らの都を築くのは如何。」
わざと改まった口調で告げたのは、決意を込めたから。
たくさんの命が奪われた場所、母なる森を殺したこの場所に、王都を。
それは、罪を忘れぬため、そして二度と繰り返さぬための、国としての自戒。
さわさわと、ススキが鳴く。
何処かで獣の咆哮が聞こえる。
夜が足早に近づいてくる。
王の答えが応であろうと否であろうと、それでよいと白木香は思った。
この場所を、この場所で起きたことを、そして己の抱く想いを、
この人に知ってもらうことが出来たのなら、それでいい。
じっとこちらを見つめ返してくれる瞳の碧は深く、その考えを決して読み取らせない。
期待にも不安にも似た想いを抱きつつ、目を逸らすこともできず、
白木香はただ、その時を待つ。
ゆっくりと夜黎の唇が動き、そして―――。
寝床に帰る鳥たちが、一斉に飛び立った羽音がする。
花の香が、一層濃くなった、そんな気がした。
【終】