水鏡
触に巻き込まれたあの日、故郷を――何もかもを失って。それでも泣き暮らすなんて御免だと、ただ真っ直ぐに前だけを見つめて生きてきた。
追い求める理想も見つけ、ここから自分の新しい人生が始まるのだと、そう思って。
ここで生きて死ぬ。その覚悟を決めたつもりで。
でもそれだけでは足りないと、心のどこかでは知っていたのかもしれない。
千鶴子が本当に求めていたのは、探し続けていたものは――
+++
神獣に会ったのは王になるためではなかった。
一臣下となり、王と神獣の膝元で微力ながらも国のために尽くす――それが千鶴子の夢であって、その志に嘘はない。しかしまさか自らが王になろうなどと、そんな大それた願いを抱いた事はなかった。
彼に自分を覚えていて欲しいと願い出たのは、選定の後に途切れてしまうはずの縁の糸を、ずっと先まで繋げようとしている者がいる事を知って欲しかったからだ。
か細い糸の一本に彼の孤独が癒せるとは思わないが、きっと千鶴子のような者は他にもいる。志を胸に昇山した者の中には、臣として王の元に参じる者も少なくはないだろう。
今まで彼が経験した数多くの出会いと別れ、その結果の縁が彼の周りを巡っている――その事にいつか気付いてくれたらと、それを願って彼の前に進み出たのだ。
あなたの周りにはたくさんの人がいる。だからどうか寂しい顔をしないで。この国の神獣様には、幸せに、笑っていて欲しい――
それが千鶴子の勝手な、独りよがりな願いである事は否めない。
だから偉そうな事を言うなと一蹴される事はあっても、自分が選ばれるなどとは露ほども思ってはいなかった。
それなのに。
(――今、なんて言ったの?)
王?王と聞こえた気がする。――誰が。あたしが?
千鶴子は呆然とした。そんなばかな。そんな事が、あるだろうか。
十五の年で流されて、この二年様々な驚きがあった。異世界に来てしまったと知った時。自分が元々この世界の人間であったのだと知った時。自分の人生でこれ以上に驚く事などないだろうと、その度に思ったものだが、まさか。
(王ですって。この、あたしが!)
これ以上の衝撃はなかった。
昇山者達と語り合ったこの国の未来や、忍び寄る荒廃に嘆き苦しむ民の姿。それらが千鶴子の肩にずしりとのしかかる。たった二年見ただけの世界だったが、それでも十分なほど千鶴子には重く感じられた。
足元がぐらつきそうだった。しかし自分を王と呼んだその声が、なおも続いているのに気付いてはっと顔を上げる。
……忘れられない、触れられたくない。
そう言った彼の瞳はやはり揺れていた。
きらきらと輝く美しい瞳に、千鶴子の目は釘付けになる。
(――まるで、水鏡のよう)
そこに映し出された澄み渡る空の青が、胸いっぱいに広がった。
今は嬉しさと寂しさがさざ波のように広がって、滲んでいるようだった。
(不思議。どうしてこんなに胸を突くのかしら)
さっきまで王という言葉におののいていたのに、その瞳を見つめていると何か別のものが千鶴子の胸に湧き上がる。
その淡い色、木漏れ日を映して揺らぐきらめき、こぼれ落ちた言葉。
それら全てが響きあって、どういうわけか――ただただ、哀しくなった。
これはなんだろう。
哀しい。悲しい――。
まるで共鳴するかのように溢れ出した痛みに、思わず胸を押さえる。
もはやこれは彼の痛みではなかった。これは千鶴子自身のもの。
(そうか。あたし……悲しかったのね)
その考えはすとんと胸に収まった。
そうだ。失った悲しみに泣きたかったのは、千鶴子の方だったのだ。
それなのに全て置き去りにしてきた。足下のものをないがしろにして、振り返る事もしなかった。
右も左もわからない中、必死に生きて行かねばならない自分には不要な感情と切り捨てて、だけど本当は耐えがたい苦しみに呑み込まれてしまうのを恐れていたのかもしれない。
いつも前に進むふりをしながら、ただひたすらに走り続ける事で、自分を苛む悲しみや寂しさを遠ざけてきたのだ。
――大切な人を亡くして嘆き悲しむ人。それを自分は、後ろを向いていても仕方ないと言いきった。
――故郷と重ねて見ていた夕焼け空。「夕日を見るのが好きだね」と言われたのに、後ろめたくて突っぱねた。
(ああ、恥ずかしい)
顔を覆ってしまいたかった。自分が本当は誰よりも一人ぼっちの寂しさから逃げていたのだと思い知って。
それに比べて彼は、その気持ちをしっかりと胸に抱いてきたのだろう。だからこうやって真っ直ぐに、忘れられないのだと言う事ができる。
互いに寂しさを抱えるその姿は鏡に映ったようによく似ていて、だけど合わせた手に続くのは、その実逆の腕なのだ。
彼の瞳に映った悲しみの色を見ていると、その事実がむざむざと突きつけられる。
自分は強いつもりだった。しかし本当に強いのは、先に進む事で目を逸らしていた千鶴子ではなく、立ち止まってそれを見続けた彼の方なのかもしれない。
きちんと立ち止まって、振り返って。己自身の全てと向き合わなければ、本当に前に進む事などできはしなかったのに。
ようやくそれに、千鶴子は気付いた。
(――なんて情けない。こんなあたしが、王だなんて)
そんな事が許されるのだろうか。
彼が心を寄せたその人を、越える事などできるのだろうか。
先ほど感じていた戸惑いが、さらに重みを増して戻ってきた。
そんな千鶴子の心の内を知らず、なおも神獣は言い募る。
――オレを納得させてよ。
ハルと名乗ったその神獣は、離れないで、ずっと一緒に居てと千鶴子に求めた。
寂しい思いはさせないと、そう言ったから。
水鏡のようだと思った彼の瞳には今、千鶴子だけが映されていた。
それを望んでここに来たのだ。だというのに、どうして自分はこんなにも情けない姿を晒しているのだろうか。
あんな事を偉そうに言っておいて、今更怖じ気づくだなんて。
そんなのは――
(――冗談じゃないわ!)
自分は彼に約束をした。それを裏切ったりできるものか。
結局の所、千鶴子は思い悩むのが苦手なのだった。大切な事に気付いてもそれは変わらないらしい。
(天があたしを王に選んだ。彼もあたしに言葉をくれた。だったらもう、答えは決まっているじゃない)
すっと目を閉じて、深く息を吸う。
恐れをなして逃げ出すだなんてもう二度と御免だった。
たとえ向き合う相手が王座であってもだ。
今度こそ、覚悟を決める。
一瞬の後に開かれた目にもう迷いはない。
途切れた視線を再び絡ませて、千鶴子は勝ち気に微笑んだ。
「いいわ。必ず、あたしがあなたに相応しい王だと認めさせてあげる。
あたしに出会って良かったと、きっと言わせてみせるから!」
自信に満ちあふれた言葉に反して、王になった自分の未来なんて全く見えはしなかった。
まだ若い自分達が国という荷を背負っていくのは困難極まるだろう。
それでも必ず果たしてみせる。少なくとも、己に負ける事だけは決してしない。その誓いを込めた言葉だった。
大丈夫。
千鶴子が前を行きすぎたら、きっと彼が引き止めてくれる。
彼が前に進めないなら、千鶴子が手を引こう。
ふたりでなら、どこまでも行ける。そんな気がするのだ。
そうしていつか、その水鏡のような瞳に、王に相応しい己の姿を映してみせる。
「だからハル、あなたも。ずっとあたしの傍に、いてちょうだいね」
+++
彼の瞳の水鏡には見たくないものまで映される。
でもそれこそが、千鶴子の求めていたものかもしれなかった。
そこに映し出された自分の姿を顧みて。
視線の先に、自分を映してくれる人の温もりを感じて。
そうしていればきっと千鶴子は大丈夫だ。
どこまでも羽ばたいていける――彼と共に。