縁(えにし)
葛城千鶴子は一七の歳で昇山した。
とは言っても随従としてだ。無事霊山に辿り着いた今も、選定を待つ主のために何くれとなく働いている。
――というのは表面上の事で、本当の所はここに来て以来、いや、旅の間からずっと、仕事の合間にこっそりと抜け出しては他の昇山者達の所へ顔を出し、彼らの話に混ざっているのだった。
「こら千鶴子、あんたまた抜け出そうってのかい」
今日も姿をくらまそうとしていた所を、同じ主人の元で働いている秀英に捕まってしまう。千鶴子はぴたりと足を止めると、いたずらを叱られた子供のような仕草で振り向いた。
「あら、見つかっちゃったわね。見逃してちょうだいよ、秀英さん」
悪びれないそぶりに秀英は溜息をつくが、千鶴子が抜け出すのはいつもの事だ。毎回仕事をきちんと済ませているので、その顔には仕方がないと書いてあった。
「今日の分も片付いてるようならいいけどね。でもこの頃、少し多すぎるんじゃないかい? 今の所はお目こぼしいただいてるようだけど、いい加減にしないと旦那様もお叱りになるよ」
「そうねえ、気をつけるわ。でも仕方ないのよ、ここでの時間が有意義すぎるんだもの。死ぬ思いでここまで辿り着いたっていうのに、これを逃す手はないじゃない?」
まるで止める気がない千鶴子に、秀英はますます呆れ顔だ。
「やれやれ、あんたのお転婆には頭が下がるよ。あたしなんか王や神獣がいるって聞いただけで身が竦んじまうけどね。早い所元の生活に戻りたいもんだ」
「それは無理ね。旦那様は見た所王様になりに来たんじゃなくて、王様やその側近になる方と誼を通じるためにやってきたんだから。きっと彼らが山を下りるまでここから動かないわよ」
昇山者達の所にいれば当然主人と出くわす事もある。もちろん見つからないように隠れてはいるが、度々遭遇するうち、なんとなしに彼の思惑も見えてくるというものだ。
「やっぱりそんな事だろうと思ってたよ。まったく、うちの旦那様ときたら逞しい事だ。こんな危ない所に来てまで商売を広げようとなさる。付き合うこっちはたまったもんじゃないね」
やれやれと再び溜息をつく秀英を見て、くせになっちゃうんじゃないかしら、と千鶴子は自分が溜息をつかせている事は棚に上げてそう思った。
実の所千鶴子も黄海に入った頃は似たような事を考えたものだ。妖魔に襲われて死人が出た時はやりきれなかった。
しかし昇山者の知己を得て、新しい世界が開けた今の千鶴子にとってこの旅は得難い経験となった。下山した後は仕官したいとすら考えているほどだ。ただ生きるために無我夢中で走ってきた自分の人生は、今後大きく変わるだろう。
今となっては自分を随従に選んだ主人に感謝しているが、皆がそうではない事も知っている。友や配偶者を亡くした人達は今も泣き濡れていた。秀英もそんな仲間を見て憤っているのだ。この人は情が厚い。
しかし千鶴子は悲しみに暮れるというのが苦手だった。いつまでも泣いていないで、今できる事を見つけて前に進むのが千鶴子の性分だ。
「そうね……。そういう気持ちもわかるけど、後ろを向いていたって仕方ないじゃない。一度来てしまったんだから、やれる事はやっておかなくちゃ」
「あんたは本当、前ばっかり見てるねえ。そういう所が旦那様のお気に召したのかね。でもそうやって進める人間ばかりじゃないんだから、あんまり浮かれて揉め事を起こすんじゃないよ。ただでさえ喧嘩っ早いんだから」
「あら、そんなに乱暴じゃないわよ、あたし。でも心配してくれてありがとう。これ以上秀英さんに溜息をつかせないよう気をつけるわね」
「はいはい、せいぜい頑張っておくれよ。夕飯の支度までには戻るんだよ」
全く信用していない様子で、それでも結局自分を送り出してくれる秀英に千鶴子は笑顔で手を振った。
「ええ。いってきます!」
+++
日が高い。昼もすぎて、今日の選定の列は途切れたようだ。選定の間を通りかかった千鶴子は閉められた門に目をやった。
このくらいの時間には昇山者達も時間を持て余して、そこらで集まっては談笑しているので、千鶴子のような若い娘がひょっと顔を出しても笑って迎え入れてくれる者が多かった。
時には神獣が現れて昇山者と交流を図るという話も聞いているが、千鶴子が神獣に出くわした事はまだ一度もない。
神獣がどんなものか興味が無いわけではなかったが、千鶴子の周りでは王を選ぶという神の獣に畏れを抱く者が多かったため、自分とは縁のないものと思いあまり気にしていなかった。
それよりも昇山者達との時間が大切で、時折自分の考えなども披露しながら意見を交わすのが楽しくて仕方なかったのである。特に官吏の経験のある者の所に通い詰めて、自身の新しい夢を語っては見通しの甘さなどを指摘され、一晩考えてまた通う……という問答のような事を繰り返していた。
王の選定に臨むだけあって昇山した者は優れた人間が多く、千鶴子のような娘、それも海客が官の道を志す事を笑わずに、真剣に耳を傾けてくれるのが千鶴子にはとても嬉しかったのだ。
はじめはぼんやり浮かんだ程度の夢のまた夢だった志が形になり、やがて真っ直ぐな道になっていくのを感じながら、今日もまた彼らの元へと急いでいた。
(今日は何の話をしようかしら。この間、あたしが官になって世に広めたいのだと海客の知識を披露したら、皆真剣に聞いてくれたのよね)
さすがは商人の国という所だろうか。千鶴子の主人と同じように、目ざとい人は未知のものの中からでもしっかり価値を見出す事ができるようだった。
しかし千鶴子の主人はあくまでも商売人で、自分の利にならない事、特に不利益が出るような事には難色を示す。致し方ない事ではあるが、きっと皆の暮らしが良くなると思うのにどうにもできないもどかしさが、貧しさに喘いでいる人を見る度に千鶴子の胸を苛んだ。
だからここで様々な人が「それはいい」と言ってくれるのを、千鶴子は何よりも喜んだ。そう言ってくれた人の中に王がいればいいと思う。その人の膝元で、末端ではあっても共に世を変えていきたい、というのが千鶴子の夢だ。
足取りも軽く自分の夢について思いを馳せていた千鶴子の耳に、その時、思いがけない言葉が飛び込んで来た。
「神獣だ」
「神獣様がいらっしゃる」
ぱっとそちらに顔を向けると、人波の向こうに輝く金色の髪が見える。なぜだか目が離せなくて思わず足を止めると、一瞬だけ人が途切れて彼の姿があらわになった。
きれい。昔見た、異人さんみたい。それが千鶴子の感想だった。今では千鶴子の方が異人な上に、こちらの人間は髪の色も目の色も様々なのでそんな感想は今更だったが、彼の姿はまるで初めて異国の人を見た時のような新鮮な驚きをもって千鶴子の目に焼き付いた。
束ねられた金の髪に澄み渡る青い瞳。長く伸びた角と馬のようにぴんと立った耳は、彼が人ならざる者である事を示している。羽衣を纏い、白い裳裾をなびかせて悠々と歩みを進めるその姿は、一見千鶴子より年若く見えるが、どこか神聖さを感じさせた。
思わず目が離せなくなるような美しさである。人とは異なる獣の特徴も目につくが、それよりもきらきらと輝く瞳の方に、千鶴子の目は引き寄せられた。
(なにを思っているのかしら)
光の加減か、彼の瞳は揺れているように見えた。そこに何を映しているのか、たった一瞬目にしただけの事なのに、どうしてもそれが気になる。
誰かに聞いてみようか。旅の間に知り合った人の中には、彼の事を知っている者もいるかもしれない。
そんな事を考えながら、神獣の姿が再び人の波に隠れてしまうのを待ってその場を後にした。
+++
「ねえ、この国の神獣様ってどんなお方?」
「なんだ、めずらしく千鶴子が黙っていると思ったら、そんな事を考えていたのか」
昇山者の元に辿り着いてからも神獣の事が頭を離れなかった千鶴子は、どうやら長い間黙り込んでいたようで、いつものかしましさはどうしたと昇山者達に訝しまれた。
「さっきお見かけしたのよ。あたし初めてだったから、驚いてしまったわ。神獣っていうのは綺麗なものなのねえ。あなた達、もうお会いして?」
「お会いしたさ。言わなかったか? 残念ながら選ばれる事はなかったけどな。確かに綺麗な方だったなあ。まだお若いが、そんじょそこらの小僧とは違うね、ありゃ」
「私はまだなんだ。なかなかふんぎりがつかなくて。でも話には聞いているよ、選定が始まってから結構な時間が経っているからね」
千鶴子の発言がきっかけで神獣の噂話に花が咲く。皆、自国の神獣に興味があるようだった。
その中でも特に千鶴子が気になったのは、あの方には一度心を寄せた人がいたらしい、という話だった。
「そうなの?」
「ああ、それは俺も聞いたぞ。かなりいい線行ってたとかで、随分懐いていたそうだな。残念ながらそいつも王ではなかったんだが」
「それ以来神獣様は物思いも増えたとか。元々神出鬼没で掴み所のないお方らしいけど、今もふと姿を消してしまう事があるそうだよ。噂では屋根の上にいる所を見かけた人がいるとかで」
「ふう……ん。そうなのね」
あとは小生意気だとか、桃がお好きだとか、そういう話から国の桃花の話になって、やがていつものお国談義が始まった。千鶴子も普段は喜んで参加する所なのだが、今日はぐるぐると神獣の話ばかりが頭を巡る。
(この国で選定が始まったのはいつの事だったかしら。あの方はどれくらいの間王を待っているのだろう。仲の良い昇山者もいたのね。……瞳が揺れていたのは、その方が選ばれなかったせい?)
お寂しいのだろうか。それとも、王が現われない事に不安を感じているのか。雲の上の人と思っていただけに、神獣の心を計る事は千鶴子には難しい。
(だけどきっと、思い出すわ)
選定を受けられるのは一度きり。毎日大きな椅子に座って、色んな人の顔を見て。これは違うと思う度、早く王を選べと急かされる度に思い出すのではないだろうか。もう会えない人の事を。
ふと千鶴子の頭に誰かの影がよぎった。もう会えない人が、千鶴子にもたくさんいる。
「おいおい、本当にどうしたんだよ。今日はやけに冴えないな。何かあったか?」
「もしや、ご主人に咎められたのでは? 困っているのなら私が出向いてお詫びしようか」
はっと気付くと、物思いに耽るあまり心配を掛けてしまったようだ。
――いけない、あたしらしくもない。
千鶴子は苦笑いすると、彼らに礼をして仕事に戻ると言いその場を去った。
外に出ると気付かないうちに日が傾いていた。空が赤い。
本当にそろそろ戻らねばならない時刻だったが、千鶴子の足取りは冴えなかった。
赤い夕日はあの日の事を思い起こさせる。千鶴子がこの世界に流されたあの日、最後に見たものは故郷の夕焼け空だった。
誰かにこう言われた事がある。「千鶴子は夕日を見るのが好きだねえ」――どうやら自分は気が付くと茜空を眺めているようだった。その時はなんとなく後ろめたくて、そんな事はないと突っぱねたのだが。
――そうだ、特別好きというわけではない。好きというよりも――
頭を振った。それ以上考えるのを止めて千鶴子は走り出す。夕飯の支度前には戻る約束だ。
切替えの早いのが千鶴子の取り柄だった。すぐに頭は仕事の事でいっぱいになった。
+++
翌日性懲りもなく彼らの元を尋ねると、一人の姿が見当たらなかった。
いつもこの時間にはここにいるのに、と思い尋ねると、下山したのだよ、と馴染みの昇山者――俊峰が教えてくれた。
「彼は武人だからね。自分の騎獣が欲しいと言っていた。既に面会を終えた者で、今から黄海に入り騎獣を探すと言っている一団がいたので、急遽それに加わる事にしたそうだ。君にもよろしく言っていたよ」
「そんな、最後に顔を見せてくれたっていいのに……。一言くらい挨拶がしたかったわ」
「そう言わないでやっておくれ。本当に急な事だったんだ。昨日のうちにわかっていればと、彼もすまながっていたよ。許してやってはくれないか」
「怒ってはいないけど、お別れくらい言いたいじゃない。せっかく仲良くなったんだもの。ここで出会った人とは笑ってお別れしたいのよ、あたし」
それにお礼だって言いたかったし。心残りだなんていやになっちゃう、薄情な人ね。そう言ってふてくされると、俊峰はくすくす笑って、薄情とは言われたくないからと、最後に千鶴子に会いに来る事を約束してくれた。
「だけど、あいつと君はきっとまた会えるんじゃないかな」
「え? どういう事」
「言っただろう、彼は武人だよ。あれでいて国府に仕える軍人らしい。君が仕官すれば共に仕事をする事になるかもしれない」
「まさか。仕官すると言ったって、何年先になるかもわからないのに。それにあたしが役人になれたとして、同じ場所で働くとは限らないわよ」
「それはそうだね。でも、なんとなくそんな気がするんだ。というより、そうであって欲しいと思っているのかな」
そう言って彼は遠くを見ると、縁について考えた事はあるか、と問うた。
「縁?」
「そう。人の縁。この場は王と神獣が縁を結ぶために設けられたものだけれど、大勢の人が集まり、無数の出会いと別れがある。……君はそれをどう思っている?」
「とても有意義な事だと思っているわよ。あたし、この旅で変わったもの。あなた達と出会ってたくさんの事を知ったし、夢も見つけた。それに、こうやって話をするのはとても楽しい。終わってしまうのが残念だわ」
「そうだね。私もそう思っているよ。だから君達と出会った、その巡り合わせに縁を感じているんだ。神獣と縁を結ぶ事無くここを去る事になっても、こうやって新たに結ばれた縁がある。私はそれを大切にしたいんだよ。せっかくの縁が、これきりで絶えてしまうのは勿体無いと思わないかい。私はこの縁をいつまでも、繋げていきたいんだ」
そう語る俊峰を、千鶴子はじっと見つめていた。
縁。考えてもみなかった。出会いや別れは突然で、だからせめて最後くらいは気持ちの良い別れにしたいと、そればかりを考えて――自分からそれを繋ぐ事など、思いもよらなかったのである。
「……でも、一度途切れてしまったものを繋ぐのは、とても難しい事だわ」
「そうかもしれないね。だけど君はまだ若いじゃないか。官吏になれば、仙籍にだって入れる」
そうなれば無限の時間を得られるのだから、切れた糸をたぐり寄せる事だって不可能じゃないさ。そう言って俊峰は笑った。
そんな事が叶うのだろうか。切れたものをもう一度、繋ぐ事ができるというのだろうか。
ここでの出会いには意味があり、別れの後もそれが変わるとは思っていないけれど、もし叶うのなら――さらに先へと繋いでいきたい。
そんな希望が、千鶴子の胸に湧き上がった。
+++
俊峰と別れた後、千鶴子は一人で考え込んでいた。
縁――。それが当人の努力によって繋いでいけるものだとしたら。
ふと、昨日見た神獣の姿が頭をよぎる。
もう会えない人を思って、ひたすらに出会いと別れを繰り返している神獣。彼の無数の出会いには、何の意味も無かったのだろうか?
そんな事はない、と千鶴子は思った。彼が心を寄せた人が王でなかったからといって、彼の心には何も残らなかったのか。違うだろう。
それならきっと、その出会いには意味がある。それこそが縁なのだ。王ではないからと言って途絶えてしまうなんて勿体無いじゃないか。俊峰の言葉を思い出して、千鶴子は考えた。
(――あたしは、縁を繋ぐ。そのために、走っていける未来がある)
千鶴子は自由だ。かつて故郷でなにもかもに満たされ、不自由な事に不満をこぼしていた贅沢な日々は失ってしまったけれど、今は誰より自由だった。
しかし神獣はそうではない。誰からもかしずかれる地位にいるあの人は、雲の上から自分の意志で降りて来る事はできないだろう。それで彼は心を閉ざしているのかもしれなかった。縁が途切れてしまうのを知って、恐れているのか、諦めているのか――千鶴子には想像する事しかできないけれど。
もしできる事ならば、彼にも知って欲しい。王でなくても、取るに足らない小さなものでも、その一つ一つには意味があるのだという事を。
千鶴子はどこにだっていける。手を伸ばせばきっと届く。あの人が自分から繋げないなら、あたしから――そんな希望を彼にも教えてあげたい。
千鶴子は今、自分がここにいる意味を理解した。
厳しい旅の道中で大勢の人を置き去りにして、それでどうにか生き残った幸運をどのように使うべきか。
人生で一度だけ、昇山した者が受けられるという選定の儀。それはどんな身分の者でも一度であれば、神獣と言葉を交わす機会を得られるという事でもある。
選定を受ける意志さえあれば、千鶴子のような随従にだって雲の上まで言葉を届ける事ができるのだ。
(会おう、彼に。王と神獣ではなくて――あたしと彼との縁を結ぶために)
そして言うのだ、「覚えていて」と。きっとこの出会いを無駄にはしないから。
(誰も言わないのなら、あたしが言うわ)
言って、彼の揺れる瞳が和らぐところを見てみたかった。
+++
千鶴子は屋根の上の人影を探す。思い立ったが吉日で、すぐに行動に移す事にした。本当なら選定の間で神獣に面会を求めるべきなのだが、かまわないだろう。
(偉そうな事を言うなと追い返されてしまうかもしれないし。屋根の上なら、かえって都合がいいわ)
頭を垂れてかしこまるのは嫌いだ。こういう時はしゃんと顔を上げて、相手の目を見ながら話すのが良い。
どうせ選定を受けると言っても形ばかりだ。千鶴子は自分が王に選ばれるとは微塵も思っていなかった。ここには立派な人達がたくさんいるのだから、王座には彼らの方がふさわしいに決まっている。もちろん志を持つ者として選定に臨みはするが、万に一つの可能性には興味がない。
ただ願うのは、彼のあの瞳に自分を映す事。それを覚えていてもらう事。
そうして結んだ糸の先が、ずうっと繋がっているのだという事を、信じて欲しい。
必ず会いに行くから。
「どうかその日を、待っていて」
あの美しい姿を探しながら、そっと呟いた。