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 『君子危うきに近寄らず』って、むかしの偉い人が言ってた。
 だれが言ってたかは覚えてない。なんの授業だったかな。
 いつ習ったんだったかな。そのあたりはぜんぜん覚えてない。
 とりあえず、賢い子はあぶないところに近づかないものだよって意味だった。
 自分が賢い子? って考えると、
 まあ、多少は、首をかしげてしまうところだけど。

 ちょっとした地鳴りを思わせる威嚇音。
 ちょっとした地鳴りってなんだろう、そもそもなんでこれが
 威嚇音だってわかるんだろうと思うけど、だって、
 あからさま穏便じゃない様子なんだもん。
 数十メートル先にみえる〈それ〉は、
 カッカッって巨体に見合わない小さなかかとで
 むき出しの地面を蹴っている。
 シューシューって、不穏な息遣い。
 ずんぐりむっくりしたシルエットは、かわいく見えなくもないけれど、
 私に向けられた立派すぎる牙は、
 愛玩動物にしては少しばかり、いや多少、
 ――訂正、だいぶ危険があぶない感。

 〈それ〉――たぶんイノシシの亜種みたいなやつ――と、
 こうしてにらみ合いをはじめて、どれくらい経つだろう。
 体感10分くらいかなって思ったけど、
 私にそんな緊張感が続くとも思えないから、
 実際は1分も経ってないんじゃないだろうか。

 手首で静かに時間を刻む時計は、深夜帯をさししめす。
 でも私をとりまく情景は、鬱蒼とした木々のあいまから射しこむ光が、
 だんだん色濃くオレンジめいてきた。
 私の時計、電波時計。
 深夜帯に電波を受信して時刻をあわせてくれるっていう
 高性能なアイツなんだけど、どうやら〈ここ〉には、
 受信してくれる電波がないみたいだった。

 『三十六計逃げるに如かず』って、むかしの偉い人が言ってた。
 だれが言ったかとか、くわしいことは覚えてない。
 でもいったい、どこに逃げればいいんだろう?
 ここはどこ? 私はだれ? まさにそれ!
 〈ここ〉にきてからかれこれ六時間。
 これは夢? ローファーはすっかり土汚れ。
 道なき道を歩きまわっていたから足はすっかり棒のよう。

 かけっこはそんなに早くなかったし、
 太平楽めいてる脳内に反して、
 二本の足はかろうじて地面を掴んでいる感じだ。
 震えをおさえてかろうじて。
 このまま踵を返してかけ出しても、
 数メートルもいかないうちに足がもつれて、
 きっと湿った地面と熱烈なキスが待っている。
 一日にこんなキスしたの初めてだよ。地面とだけど。

 ぬぐっても取れなくなっちゃった袖口の汚れや、
 空気に触れてひりひり痛む指先や膝のすり傷。
 ああこれが夢なんだろうか?
 夢だったらイノシシの突進を受けてゲームオーバーしても、
 目覚めて生き返ることができるかな?
 目が覚めたら朝だって展開にはならないかな?

 私をとりまく光の色が、目に見えて暗くなってる。
 現実逃避はこれまでだ。
 夢だったとしても夢じゃなかったとしても、
 私は、いまを、どうにかしないといけないんだから。

『君の名前を言ってごらん』

 脳裏に響く、だれかの声。
 だれの声だか覚えてない。
 荷物に入ってた生徒手帳で確認したよ。
 私は高校生。17歳。2月5日生まれ。名前。
「篠枝ニカ」
 大きな声で言ってごらん。
 脳内の声はそう続ける。
 森の動物って基本はおとなしいんだっけ。
 驚かせたら逃げる隙、見つけられるかな。そうだといいな。

***
 ちょうど両手を広げたくらいの、ごつごつとした器の中に、
 とろんとしたスープがそそがれる。
 無意識にひくつく鼻が、おいしいにおいをとらえた。
 できたてあつあつ。
 ざくざくに切ったもやしのようなものが表面から顔を出していた。
 ところどころ、濃い色の欠片が見えるけど、
 わきあがる湯気で、それがなんなのかよくわからなかった。

 ずっしりと両手に乗る器が、
 温かいと熱いのボーダーをうろうろしている。
 そこでようやく私は、自分の手がひどく冷えていたことに気づいた。
「ありあわせの湯菜だがな。さっさと食え。冷めちまうぞ」
 熊がしゃべる。
 うそです。熊じゃないです。
 熊みたいな人。もっしゃもしゃのひげと、
 帽子にかくれた髪の毛は真っ黒。
 いままで見たことのないくらいガタイがいいおじさんだ。
 彼の視線は、そばにぽつんと置かれるスプーン状の食器に落ちている。

 あ、そうか、私、このまま器に口をつけて
 食べようとしたけれど、この湯気だ。
 火傷はどう考えても必定だった。

 器をゆっくり机に置いて、スプーンを手にする。
 陶器でできたそれは、よく使い込まれているんだろう、
 ところどころにしみがある。
 スプーンを手にしたまま手をあわせる。
 いただきます。
 スープをすくいあげて少しだけ湯気を吹き飛ばし、
 口の中にそっと入れた。
 喉が液体を求めていたみたいで、
 最初の一口目はつるんと体のまんなかに吸い込まれていった。
 たったそれだけのことなのに、
 硬く縮こまっていた身体がじわりととけていく気がした。

 あ。これ、しいたけのにおい。
 濃い色の欠片は、たぶんしいたけだ。
 二口目はちゃんとあごを動かす。
 奥歯でもやしを噛むと、ちがう味が生まれたみたいだ。

 そこからのことはあんまり覚えてない。
 鶏肉みたいな破片があって、
 あと、とろみはたぶん片栗粉を使ってるんだろう。
 すくって、噛んで、飲み込んでいるうちに、
 心のなかで張っていた糸がぷつんと切れちゃったみたいだった。
 だって、あったかいんだもん。
 しかたないよね。あったかいんだもん。
 ぼろぼろ涙がこぼれる。

 熊の人は慣れているのか、
 私がスープをもやしの欠片ひとつすら残さず食べるのを
 見届けてから、私についてくるよう言った。
 案内されたのは小さなテントで、
 簡素な敷物と、テーブルクロスみたいな柄の布や、
 お水のはいった両腕にかかえるくらいのたらいがあった。

 ここで夜を明かすように、と言われて、熊の人はテントを出て行く。
 入り口の布がおろされて、熊の人の背中を見送ることはできなかった。

 時計を見る。
 イノシシのような動物と対峙したときから、一時間ほど経っていた。

 ――あのあと……私が覚悟を決めたすぐあと、
 耳を打つ破裂音とともに、イノシシのような動物は
 どうっとその場にたおれふした。
 いわゆるワンショットキルだと気づいたのは、
 音の方向を振り向いたその先にいた人物が、
 細い筒のようななにかを手にしていたからだった。
 それが猟銃というやつで、
 イノシシのような動物はそれに撃たれた。
 そして私は猟銃の持ち主たちに連れられて、
 たくさんのテントが集まる――たぶん、野営地ってやつで、
 おいしいスープをごちそうになって……いまに至る。

 状況把握、それなりに完了。

 テントの中を照らすようにうっすら灯りが揺れていた。
 夜はすっかり更けている。
 遠く、聞こえてくるのはふくろうの鳴き声なんじゃないかしら。
 とりあえずカーディガンを脱ぐ。
 袖口も、背中も、裾も、泥だらけだった。
 リュックサックの中からハンカチをとりだして、たらいの水に浸す。
 指先にまとわりつく感覚は、夢のなかにしてはやっぱりリアルすぎた。
 夢のなかだからこそリアルに感じるんだって思うけど、
 そこはもう考えてもどうしようもない。

 ぬらしたハンカチでスカートの汚れを拭う。
 17歳の高校生。私、篠枝ニカ。
 私にわかるのはそれだけだ。
 ここがどこなのか、自分がだれなのかもわからない。
 いくつかわかることがあるとすれば、ここが、
 これまで私がいた場所じゃないということくらいなもので。
 でも、どこにいたのかって言われても、
 私にはうまく答えられそうにない。

 ここはどこ?
 私はだれ?
 記憶喪失。
 あっでも、記憶喪失は記憶喪失でも、
 私は言葉をしゃべることができるし、足だって動くし、
 こうしてものを考えることもできる。
 最低限の記憶は保っている。
 時間だって把握できる。身についたものは覚えている。

 これは、たしか、エピソード記憶がなくなった、というやつだ。
 私が私を形成するための
 たくさんの思い出が失われてしまった状態。
 私はこれからどこにいくんだろう。

 靴をぬいで、厚手の敷物の上に座る。
 テーブルクロスみたいな布が、
 ざらざらしたブランケットみたいなものだと認識したら、
 唐突にずんと身体が重くなった。
 こういう時でも身体は正直だ。
 なにがなんだかわからない状態で、
 なにがなんだかわからない緊張をしないといけなくて、
 おいしいごはんにほっとして、身体が休みたいって騒いでる。

 とりあえずむずかしいことは考えるのはやめよう。
 スカートが皺になっちゃうけど、
 私はそのままするりと寝床に入り込んだ。
 熊の人がだれなのかもわからないけれど、
 作ってもらったスープがとってもとってもおいしかったから、
 たぶんきっと、悪い人じゃない。
 イノシシ的ななにかから、私のこと、助けてくれたもんね。

『君の名前を言ってごらん』

 誰かの声が脳裏に響く。
 私? 私の名前は篠枝ニカ。
 ニカ、だよ。
 大きな声を出すことは、睡魔にとりつかれてむりだったけれど、
 心の中で私は声を出す。
 私の名前は篠枝ニカ。ニカ。

***
 そんなこんなで王になりました。
 ……なんて、展開すっ飛ばしすぎてる?
 うん、私もそう思うよ。でもね、本当に、
 あっというまのことだったんだもん。

 私を拾ってくれたのが、緑東地方を旅する移動厨房旅団で、
 私は、蓬莱……日本から、触という現象で
 こっちの世界に飛ばされてきてしまった、森客という存在で、
 緑東地方は天候とかがすっごく荒れてて……
 その理由は王様がいないからで……
 王様がいないから大地が荒れるってすごいよね。
 で、そのすごい存在に、私、なっちゃったんだから、
 展開すっ飛ばすもすっ飛ばさないもなにもないと思うんだよね。
 だって私にもよくわかってないんだもん!

 神獣は、麒麟の環麒くんっていう子。
 やわらかいおひさま色の髪の毛に、透きとおった緑の目の男の子。
 なにがびっくりって、どうもね、日本で同級生だったみたいなの。
 驚きだよね。神獣も日本にいたことがあるの?!
 なんて思ったけどそこはまあいろいろあるみたい。
 まだ記憶があったころ、私達、お話したことがあったのかな?
 あまりそのあたありの込み入ったことは聞いてない。
 というか、王様になっていろいろやることとか
 勉強することが多すぎて、なかなか世話話までする余裕がない。
 着慣れない衣装に袖を通して、
 まずは世界の成り立ちから勉強して、議会みたいなのを聞いて……。
 一日が終わるころにはくったくた。お風呂で船こげちゃう。
 髪もかわかすのでいっぱいで、ベッドに突っ伏して泥のように眠る日々。

 あっでもね、この国のご飯、ほんっとうに美味しいんだ。
 移動厨房旅団のまかないも、これでお金取れるんじゃないかって
 くらいに美味しかったんだけど、とにかく味が繊細!
 まさに一手間かけた味!
 ジャンクフードじゃ味わえない味っていうのかなあ、
 ナポリタンをちゃんと鉄板で炒めてる感じ。
 炒飯のお米がぱらっぱらな感じ。

 お料理の基本の基本だって思うでしょ?
 でもその基本を忠実に、そして食材を最大限に生かすのが、
 この国のお料理だって、環麒くんが教えてくれました。

 だから、私も、基本に忠実に。
 なりゆきで王様になったからっていって、手は抜きたくないよ。
 はじめてこっちで食べた湯菜みたいに、
 だれにでも美味しいって思われる王様になれたらいいなって。
 私のできる限りで、美味しいご飯を作りたいなって、そう思うよ。

 私の名前は篠枝ニカ。
 しのえだ、にか!
 君の名前を言ってごらん。
 元気がないとき、悲しいとき、しょぼくれているとき、
 君の名前を声に出して言ってごらん。
 それだけできっと君は、とっても強くなれる。
 私の記憶は戻らないけど、
 脳裏に響くその声は、私にとって、魔法の呪文だ。

***
「王はなぜ、この国を『咲虹』と名付けたのですか?」

 ある日の昼下がり。環麒くんに問いかけられた。
 国の名前をつけたのは、王様になってすぐのこと。
 ほかの地方にある国の名前を教えてもらって、
 この国のこととかいろいろ考えた末に、
 虹が咲く、咲虹という名前にしたんだよね。

 名付けの由来は、環麒くんの宝重である
 『七色の大宝玉』からだよ、とは伝えたけれど、
 もうちょっと詳しい意味は伝えていなかったかもしれない。

 なにせあのころは本当にてんやわんやの忙しさ。
 美味しいご飯とお風呂と睡眠が心のよりどころ。
 まだ環麒くんともちょっと距離があったもんね。

 王宮の奥まったところにある、そこそこの大きさのお庭。
 春の花びらが水面に揺れる池のそばの東屋で、
 私と環麒くんはテーブルを囲んでいる。
 つやつやしている石でできたテーブルと椅子は、
 白西地方で採掘される岩石を加工したもので、
 いつでも心地のいい温度を保つらしい。

 春の原っぱ色をした陶器の茶器からは、
 花と果物の香りが強くただよっている。
 永馨名産のお茶で、
 このあいだ顔を見せてくれた移動式厨房の頭領……熊の人が、
 おみやげにと持ってきてくれたものだった。

 麗麟産のレモンを使ったフルーツタルトを添えて、ひとときの安らぎを。
 こういう時間って大事だよね。

 環麒くんは心配性だ。
 この国のためにいつもがんばってて、いっつも焦ってる。
 眉毛がね、八の字になってるんだよ。
 私にもだいぶ余裕ができて、
 環麒くんのそういう表情がわかるようになってきたから、
 こうして一日に一回、一時間くらい、
 ふたりでぼんやりする時間を設けることにしたんだ。

 今日の悩みは、
 最近何かと話題にあがってるあれのことかなあ……と、
 思い当たるところはあるけれど、そういう話はここに持ち込まない。
 そういうお話は、この時間以外にたっぷりできるもん。
 おいしいお茶と、おいしいおやつを食べて、気力回復。
 これ大事。おいしいごはんは気持ちを救うよ。

 そうだ、名付けの意味。
 咲虹の名付けの意味。
 フルーツタルトを口にする。
 レモンの酸味がさわやかに抜けていって、
 柑橘系ならではの甘みと渋み、それからバターが
 口の中でおいしい! ってメロディをかき鳴らす。

 おいしいと幸せだよね。
 自然にニコニコしちゃうよね。
 そういうの大事なのに、環麒くんは困り顔。

 国のこと、みんなのことをたくさん心配するの、
 責任感あってとってもすばらしいことだけど、
 それだけじゃあしんどいよ。

「咲虹の咲、の、ほかの読みって知ってる?」

 逆にそう聞き返すと、環麒くんの瞳が揺れる。

「咲く、の他に?」

 うん。咲く、のほかに。

「えみ、って読むの」
「えみ」
「お花が咲く、っていうのを、お花が笑う、
 って昔の人が言ってたんだって。だからね、咲、は、
 わらう、っていう意味でもあるんだよ」

 陶器の茶器を置いて、私は環麒くんと距離をつめる。
 膝と膝がぶつかるくらいまでそばにいって、
 訝しげな環麒くんを見上げて、ニッと笑ってみせた。

「環麒くん」
「……?」
「私の名前を呼んでごらん」
「……え?」
「私の名前! ほら」
「篠枝ニカ」
「そんな小さな声じゃ聞こえないよー、ほら、
 下の名前だけでいいよ、もっと口、動かして」
「ニカ」
「うん。ニカ!」

 君の名前を言ってごらん。
 誰の声かはわからない。私の心に響くその言葉。

 私の名前は篠枝ニカ。2月5日生まれ。17歳。
 私の名前の由来。ほら、もういちど、ニカ、って、口を動かして言ってみて。
 ニ・カ! ほら、ちょっと笑顔になったでしょ?
 にこにこ、って言うより、にかにか、って言うほうが、
 笑顔になってる、そんな気がしない?

 いっぱい笑おう。
 笑っててもどうしようもないことだってたくさんあるけれど、
 いっぱい笑おう。
 花が笑って蕾がほころぶように、たくさん、たくさん。
 空に架かる虹みたいに、いろんな色で笑おう。
 国のひとたちだけじゃなくて、
 咲虹のお料理を食べたひとがみんな笑ってくれたらいい。

 そのためには、まずは、君。環麒くん。
 私の相棒。私の片割れ。まずは君から。

 私の名前は篠枝ニカ。
 まずは君を、たくさん、ニカっと、笑顔にするよ。
 たよりない王様だけど、みんなが幸せに笑ってる、幸せな国にしようね。

 だからね、これからも、どうぞ、よろしくね。





『はなわらう』<了>

© 2017 王と神獣

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